山邑邸の建設に深くかかわった建築家・南 信
No.1 建築家・南 信(みなみ まこと)

 フランク・ロイド・ライトの設計として知られる山邑太左衛門別邸は、ライトのスケッチによるものを遠藤新と南信が実施設計をまとめ、建築の姿となった。そして、棟札には設計者名として遠藤新建築創作所と書かれていたことが知られている。遠藤新は、ライトの高弟として知られているが、南信については、あまり知られていない。そこで、ここにスペースをいただき南信に少々触れることにする。
<建築史家 井上 祐一>

■仙台から東京、そして芦屋へ
南 信 南家は元仙台藩の士族で、信(まこと)は小学校校長を勤めた父寛壽と、天文学者平山清次の姉である母きわの長男として、明治25年(1892)2月13日に仙台市で生まれた。後に、仙台第二中学校から第二高等学校を経て、大正6年(1917)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、日本トラスコン鋼材に入社した。帝国ホテルの建設に同社から派遣された南は、高校および大学の先輩に当たる遠藤新(1889−1951)とともにフランク・ロイド・ライトの下で働くことになった。帝国ホテルの建設途中にライトが帰国した後、大正11年(1922)10月に遠藤南建築創作所(※)が設立され、関東大震災に見舞われる大正12年(1923)9月1日に完成披露を迎える帝国ホテルの工事は、佳境に入っていた。 大正12年春には南は、山邑太左衛門別邸の実施設計と現場監理に従事するため、東京から芦屋に移り住み、常駐して大正13年(1924)の完成を目指していた。なお、遠藤新の親友であった政治家星島二郎の夫人雛は、太左衛門の娘であることから、山邑別邸の設計依頼の経緯が自ずと見えてくる。

(※)事務所名は「遠藤南建築創作所」とされ、看板は2人が分かれた後も遠藤の事務所(東京)に掛けられていたが、戦災で焼失した。また、南と遠藤は旧満州で再び協働し、設置した事務所にも同名称の看板が掛けられた。しかし、協働期間中の作品発表等にもこの事務所名称は見られず、「遠藤新建築創作所」の名称が使用されている。

■山邑太左衛門別邸について――建築雑誌『新建築』から
 ヨドコウ迎賓館(旧山邑太左衛門別邸)は、大正14年(1925)の『新建築』9月号の目次に「六甲山麓山邑氏の新邸 南信」と口絵及挿絵に「六甲山麓の山邑邸写真版刷」「同上プラン凸版刷」として掲載されている。口絵の写真は内外観8枚、図面は平面図5枚と立面図1枚が掲載されている。南信(みなみ まこと)による解説文は、「山邑邸解説」との表題で4ページにわたって書かれ、続いて「山邑邸の電化に就いて」(小林準次)で、電気設備の概要が説明されている。 建設現場に常駐していた南は、「山邑邸解説」のはじめに、この建築についての考え方を述べている。それは、水の流れになぞらえて「要は只水が極めて従順に自然の環境に従ふが故ではあるまいか、上善如水といふ言葉には良い哲学がある。この哲学を建築に当てはめて見る、そして極めてよく四囲の環境に順応した建築を考へる、無抵抗な建築である。造形的な老子である、そうするとフランク・ロイド・ライトの顔が現れて来る様な気持ちが―私は―する。」とし、「そういふ目で、芦屋の山邑邸を見ていたゞき渡い。」と述べたあと、立地に始まり建物のプラン・仕様、デザインの基調に至る解説をしている。 文末には「此の建物は始めライトのスケッチになつたもので、中途不幸にしてライトが帰米した為め、止むを得ず遠藤新氏と自分とで仕事をまとめることゝした、ライト氏が今此の建物を見て如何の感が有るか、恐らくは不満な点に満ちてあらうと思ふ、ライト氏が、若し此の建物の進行を長く見まもってくれたであつたらうならば、或は今日ある形と全く変わって居たかも知れぬ、」とあることから、ライトのスケッチがどのようなものであったかは不明ではあるが、実施設計は、遠藤と南によるものであることが分かる。因みに設計者名が「遠藤新建築創作所」と書かれた棟札があったことは知られているが、行方は不明と聞く。
新建築9月号
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迎賓館外観


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